昭雲堂の想い
萩焼について
関ヶ原の戦いに敗れた藩主毛利輝元は、それまで中国8か国(120万石)を治めていた領地から長門・周防の2国37万石(現在の山口県)に減封され、慶長9年(1604年)萩に移封・築城することとなりました。輝元は1592年(天正20年)にはじまった豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に連れ帰っていた朝鮮陶工(李勺光・李敬)の兄弟に命じ、藩の御用窯を築いたのが「萩焼」の始まりとされております。
李兄弟は松本村中之倉に築窯し、李敬は開窯後坂本助八(のちに坂に改名)と名乗りました。深川焼は明暦3年(1657年)李勺光の孫にあたる山村平四郎光俊が、松本中之倉の陶工とともに開窯し、寄り合い窯として発足しました。これにより萩焼は松本・深川の二窯体制となりました。
寛文3年(1663年)になると、2代藩主綱広の藩窯振興政策により、新たに三輪窯、佐伯(のち林)窯が加えられました。全盛期の藩窯に従事した熟練陶工は、他国(出雲松平藩・楽山窯)や藩内の諸窯(須佐唐津焼・長府藩松・風山焼)に出向し、その技量を披露しました。明治維新の後、今までの藩窯としての萩焼は大きな転換期を迎え、松本萩の坂窯と三輪窯は茶陶窯として残りましたが、深川萩においては、12軒あった窯元は4軒に減少しました。明治時代末頃には、宮野村大山路(山口市)に大和松緑が宮野窯を開きました。
昭和に入ってからも萩焼の不振は続き、各窯元は販路拡大に苦心し大都市での萩焼のPRに努めました。第二次世界大戦後、急速な経済成長は茶道の隆盛を導き、茶陶としての萩焼が脚光を浴びるようになります。昭和32年(1957年)12代坂倉新兵衛が記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選ばれ、さらに昭和45年(1970年)には10代三輪休雪(休和)が、昭和58年には11代三輪休雪(壽雪)が重要無形文化財「人間国宝」の指定を受け、伝統ある萩焼は茶陶としての地位を築き、全国に知れ渡るようになりました。そして2002年経済産業省指定の伝統的工芸品の指定を受け、日本を代表する工芸品となった「萩焼」は、現在では海外でも高く評価され、世界中で愛好されるようになりました。
「萩焼の特徴」
萩焼の特徴は、焼き締りの少ない柔らかな風合いと素朴さにあります。
焼成後、器を冷ます過程で、胎土と釉薬の収縮率の違いから「貫入」という細かいヒビ模様が入ります。その貫入から使用成分が浸透する性質があり、これは使えば使うほどより深く浸透してゆき、全体に広がってゆきます。この貫入を通しての色調の変化を「萩の七化け」や「茶馴れ」と呼び、育てる楽しみのある器として広く支持されています。
「一楽・二萩・三唐津」
茶の湯(茶道)において、茶人に愛好されるすぐれた茶陶を称する表現で、京都の楽焼、山口の萩焼、佐賀の唐津焼を指します。
「萩の七化け」
焼成の際に陶土と釉薬の収縮率の違いから、貫入と呼ばれるヒビ模様が出来ます。
この貫入から水分が浸透することで、器の肌が少しずつ変化していくことを意味します。